「恩知らず」「プロなら当然」中村紀洋内野手のFA権行使に賛否両論。

2008/11/15 19:36 Written by Narinari.com編集部

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中日の中村紀洋内野手がFA権の行使を表明した。中村選手は2006年オフにオリックスとの契約交渉が決裂し、どの球団からもオファーが来ずに「浪人」の危機を迎えていた時に、唯一中日だけが救いの手を差し伸べたのは記憶に新しいところだ。選手生命が絶たれる寸前でピンチを回避できたのは、一にも二にも中日のおかげだったのだが、そんな中村選手が、なぜ移籍も視野に入れたFA権行使という決断に至ったのだろうか。

中村選手はFA権行使に関して、「監督をはじめ、ドラゴンズ関係者にチャンスをいただけなかったら、こういう権利を得ることができなかったので感謝しています」と、球団に感謝の意を表した上で、「残りわずかな野球人生をと思い、権利を行使させてもらう」とのコメントを発表している。35歳という年齢、2度目のFA権取得、他球団の評価を聞きたいとの想いなどが相まって、FA権行使に気持ちが傾いたようだ。

また、この決断の背景には、落合監督が漏らした来季構想に原因があるとの見方が強い。落合監督は、中村選手がレギュラーを張るサードを来季は森野将彦内野手に任せ、中村選手をファーストに配置転換した上で若手選手と競争させると明言。これが中村選手にとっては「レギュラーはく奪」と映り、サードへのこだわりからFA権行使へと流れたのではないか、との見方だ。事実、スポーツニッポンの取材に対し、中村選手は「僕にもここまで一線でやってきたプライドはある。いろんな思いもあるし……」と、多くは語らないものの、何らかの「プライドを傷つけられること」があったような発言をしている。

今回のFA権行使に対し、野球ファンの反応は賛否両論。やはり目立つのは過去に中村選手が所属球団と揉めごとを起こし続けてきた経緯から「ついに本来のノリさんが戻ってきた」「恩知らず」「裏切り者」という皮肉や批判だが、そうした意見一辺倒ではなく、一方で「中日は年俸ケチりすぎた」「35歳ということを考えれば、使える権利は使って最後まで稼ぎたいと思うのはプロとして当たり前」「Cランク(※補償が発生しないFA選手のランク)だから球団には迷惑をかけないし良いのでは」と理解を示す声も少なくない。

中村選手は2007年に中日に育成枠で入団。年俸は前年の2億円の税金も払えないほどの400万円、背番号は練習生扱いの「205」から再スタートとなったが、シーズン開幕前の3月に支配下選手登録され、終わってみれば130試合に出場、打率.293、20本塁打、79打点の成績を残し、日本シリーズでは打率.444(18打数8安打)、4打点の活躍でシリーズMVPにも輝いた。2008年もレギュラーとして140試合に出場、打率.274、24本塁打、72打点の好成績でシーズンを終えている。

☆中村紀洋選手 騒動の歴史
◎2002年オフの顛末(近鉄時代)
この年、初めてのFA権を取得した中村選手は「近鉄で終わって良いのか」との思いから、オフにFA権を行使した。近鉄、阪神、メッツからオファーが寄せられたが、中村選手はメッツとの契約を選び、入団合意にほぼ達したことから、メッツは球団HPで獲得を発表(※ただし、公式発表ではなく、メッツと契約した外部記者の記事だった)。このフライング気味の発表に不信感を募らせた中村選手は突如として反旗を翻し、近鉄残留を表明した。この決断には当時近鉄の監督を務めていた梨田監督の熱心な慰留が大きく影響したと言われている。

◎2004年オフの顛末(近鉄時代)
近鉄がオリックスとの合併で消滅したことを受け、2002年オフの残留時に球団と交わした4年契約の2年目終了時ながら、ポスティングでのメジャー移籍の権利(※残留時の契約に盛り込まれていた)を行使。2005年1月にドジャースが落札、2月にマイナー契約(年俸50万ドル=約5,200万円=当時)を結ぶ。

◎2005年オフの顛末(ドジャース時代)
ドジャースでは、オープン戦で20試合に出場、44打数14安打、打率.295、3本塁打(チーム1位タイ)、8打点(同3位)と結果を残したものの、開幕は3Aで迎える。4月10日に念願のメジャー昇格。17試合に出場し、打率.128(39打数5安打)、0本塁打、3打点と成績はふるわず、5月8日にメジャー40人枠から外される(事実上の戦力外通告)。その際に中村選手は「納得できない」「オファーがあれば日本も含めて考えたい」と発言したと報道され、日本の野球ファンから総スカンを食らった。その後、シーズン終了までマイナーでプレーを続け、101試合に出場し、打率.249、22本塁打、67打点。メジャーで活躍するという夢は果たせず、1年で帰国し、2年総額4億円(年俸2億円)+出来高払いでオリックスに移籍した。

◎2006年オフの顛末(オリックス時代)
2006年5月、シーズン中に左手首を故障した中村選手は、契約交渉の席で「公傷」扱いを希望したが、球団は85試合、打率.232、12本塁打、45打点の成績では「貢献」は認められないと、下交渉で1億2,000万円減となる年俸8,000万円を提示。6回に渡って交渉するも話し合いは平行線をたどり決裂、トレード先を探したものの見つからず、2007年1月17日に自由契約となった。その後中村選手は他球団からのオファーを待ち続けるも吉報は届かず、各球団は2月1日から春季キャンプをスタート。各球団の陣容が固まる中、中村選手の焦りは募り、「浪人」の危機を迎えていたが、2月12日に中日が入団テストを行い、2月25日に同球団と正式に育成選手として契約を結んだ。

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