古葉竹識氏が東京国際大監督に就任、津田恒実さんの長男も編入。

2007/11/28 15:40 Written by コジマ

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1975年にチーム史上初のリーグ優勝、79、80、84年と3度の日本一へと導いた元広島監督の古葉竹識氏。85年に広島の監督を勇退した後は大洋(現横浜)の監督に就任し、ここでは広島での黄金期を再現することはかなわなかったけれど、80年に正力松太郎賞を受賞し、99年には野球殿堂入りを果たすなど、その名はプロ野球の歴史に燦然と輝いている。ベンチの端から体を半分出す姿は、とても印象的だったのだ。

そのプロ野球界屈指の名将が、今度は大学野球を舞台にその辣腕を振るうこととなった。就任するのは、東京新大学野球連盟1部に所属している東京国際大の野球部監督。当初は固辞していたのだけど、大学側の熱心な説得に折れて引き受けたのだそう。ただ、古葉氏は昨年1月までプロ野球OBによるマスターズリーグの札幌アンビシャスで監督を務めていたことが日本学生野球協会の規定に抵触しており、「プロ退団後2年経過」の条件が満たされる来年1月までは、三男の隆明さんが代行するようなのだ。

プロ野球の名監督が大学野球の指揮を執るというだけでも異例のことだけど、古葉氏の就任を聞きつけた故・津田恒実さんの長男、大毅さんが、その指導を受けるために編入したというから、さらに驚きなのだ。

広島ファンだけでなく、プロ野球ファンの心に深く刻まれている“炎のストッパー”津田さんは、古葉氏の監督時代である82年に広島へドラフト1位で入団。栄光と挫折を味わいながらも、剛速球を武器に強打者に立ち向かっていく姿は多くの人に愛され、特にバットに当てたのに手首を骨折させた巨人の原辰徳(現巨人監督)との勝負や、全投球渾身の直球で三振に打ち取った阪神のランディ・バースとの勝負は、いまも語り草となっている。

脳腫瘍をわずらっていた津田さんは、ご存じの通り93年に32歳の若さで亡くなってしまったのだけど、その3カ月後、親友だった森脇浩司氏(近鉄−広島−南海=ダイエー)のはからいで父と同じ背番号14番のユニホームを着て福岡ドームの始球式のマウンドに立ったのが、大毅さんなのだ。あの感動的な始球式から14年、熊本の九州学院高を今春卒業した大毅さんは九州の私立大に進学し、投手兼外野手として野球を続けていた。そこへ古葉氏の監督就任の話を聞かされ、今秋に東京国際大の編入試験を受けたのだそう。

見事合格した大毅さんは、来年1月から亡き父と同じ監督の指導を受けることになった。古葉氏は「未完成だが、右の速球派」(産経新聞より)と評しているのだけど、厳しい指導で有名な名将によって“炎のストッパー”の息子がどんな野球選手に育つのか、斎藤佑樹投手(早稲田大)のいる東京六大学野球連盟同様、東京国際大の所属する東京新大学野球連盟にも注目したい。それにしても、“始球式の息子”が野球を続けていたことに、なんだか感激してしまったのだ。

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