「ヒルズ族になれなかった男」元クレイフィッシュの松島庸氏は今。

2005/12/31 12:33 Written by コ○助

このエントリーをはてなブックマークに追加


時はITバブル時代。東京・渋谷を拠点とする「ビットバレー」が世の中の話題をさらっていた頃のこと。当時、時代の寵児のように扱われていた重田康光社長率いる光通信から投資を受け、躍進していた企業たちが「ヒカリモノ」と呼ばれていたのを覚えている人もいると思うなりが、オンザエッジ(ライブドアの前身)やサイバーエージェント、リキッド・オーディオ・ジャパン、インテリジェンスなどと並び、ホスティングサービスを主軸に業績を急激に伸ばしたクレイフィッシュという会社があったなり。

厳密には現在でも会社は生き続けているので「あった」という表現は正確ではないなりが、創業時のメンバーはすでに全員退社し、今では全く別の会社なのであえて過去形にしておくことにするなりね。この会社を立ち上げたのは松島庸氏。26歳のときにアメリカのナスダックと東証マザーズに日本企業としては初めての同時上場(最年少上場記録)を果たし、最盛期の社員数は250人という大きな企業に成長、個人資産は2,000億円にも及び、若き経営者の雄としてメディアに引っ張りだこだった人物なりよ。でも、同時期に注目を集めた堀江貴文氏や藤田晋氏のような「ITセレブ」になることはできず、現在は話題になることも皆無。いったい松島氏はどうしてしまったのか、そして今は何をやっているのか。クレイフィッシュを去った「その後」について追ったレポートが毎日新聞に出ているなりよ。

松島氏は2001年5月にクレイフィッシュの社長職を辞任。それは、皮肉にも大株主にして、クレイフィッシュの成長を支えてきた光通信との対立が原因だったなり。ITバブルが弾け、業績に見合わない異常な株価を付けていた「ヒカリモノ」に対するバッシングが激しさを増す中、光通信との関係を断ち切ろうとした松島氏と光通信の間に大きな溝が生まれ、結果的に会社を乗っ取られるようなカタチでクレイフィッシュを追われることになったなりね。

当時の対立の様子はNarinari.comでもお伝えしているなりが、日経新聞のインタビューに対して「今から思えば光通信と手を組んだこと自体、経営者として甘かった」「昨年秋、当社の株式を売却してくれるよう申し入れたら、重田康光社長から『恩知らず』と怒鳴られた」「失敗を若さのせいにするつもりはない。とにかく勉強不足だった」と、その胸の内を語っていたなりよ。

その後、表舞台から姿を消してしまった松島氏。一時は上海に乗り込み、新しい事業展開を試みたものの上手くはいかず、今年の夏に香港に拠点を変え、現在はIP電話などを手がける投資会社の雇われ社長をしているというなり。部下はわずかに5人。クレイフィッシュ時代の栄光からは、まさに天と地といった状況に置かれているなりね。

以前、松島氏がクレイフィッシュを上場させるまでを追った本「ヘソマガリ」を読んだことがあったなりが、その先見性や行動力には感銘を受けるところも多々あったなりよ。経営判断のミスによって失脚したとはいえ、偉業を達成して一時は時代の寵児になりかけた人物。まだまだ苦しい状況にあるようなりが、いずれ香港からまた活躍の一報を聞かせて欲しいなりね。

TOPへ戻る
このエントリーをはてなブックマークに追加

Copyright © Narinari.com. All rights reserved.