史上最多の80試合に登板、藤川球児投手を見守った人々。

2005/10/24 19:00 Written by コ○助

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22日から千葉マリンスタジアムで始まったロッテとの日本シリーズはよもやの連敗。2試合とも一方的なゲーム展開で、いわゆる「JFK」(ジェフ・ウィリアムス投手、藤川球児投手、久保田智之投手)の中継ぎ三本柱を投入する機会なく負けてしまっているなりが、シーズン優勝の立役者は紛れもなく「JFK」。特に藤川投手は、80試合に登板して日本記録を樹立するなど鬼神の如き活躍を見せてくれたなりよね。阪神ファンの間でも、かつてのドラフト1位がここまで化けるとは……と、いまだ半信半疑の人は少なくないなりよ(笑)。

そう、藤川投手は1998年のドラフト1位の投手。同じ年に指名された選手には松坂大輔投手(西武)、福留孝介外野手(中日)、岩瀬仁紀投手(同)、上原浩治投手(巨人)、二岡智宏内野手(同)、小林雅英投手(ロッテ)、金城龍彦内野手(横浜)などのスター選手がいるなりが、藤川選手は完全に出世の波に乗り遅れ、阪神ファンからも「藤川は広末涼子と同級生だったことしか記憶に残らない(※市立城北中学校時代の同級生)」と言われてしまうほど、もはや将来を期待されない悲しき「ドラ1」だったなりね。

こう言われてしまう理由の半分くらいは、スカウト力があまりに酷かった阪神暗黒時代の悪夢を引きずっていたファンが多かったためで、決して藤川投手にすべての非があったわけでは無いなりが、1軍ではほとんど実績を残せずに6年間を過ごしてしまったことは、「実力不足」のレッテルを貼られても仕方がない状況ではあったなりよ。

そんな藤川投手を温かく見守っていた人たち。プロ入りする前、高知で野球をやっていた頃から藤川投手を見守ってきた人たちにインタビューをした興味深い特集記事が高知新聞に掲載されているなり。阪神ファンなら読み込んでしまいそうな、ちょっと良い話も散りばめられている内容なので、少し見ておくことにするなりね。

小学校から高校まで“女房役” 池内和矢さん
「(少年野球の頃)球質が軽くて、芯(しん)をくったら飛ばされた。ミットで捕っても手が痛くなかったような記憶があります」
「(阪神に指名されたときには)『やっぱりな』と。子どものころから輝いていたから」

弟の球受けて甲子園出場 藤川順一さん
「(藤川投手の試合で)一番印象に残っている試合ですか? 甲子園行きを決めた決勝戦ですね」
「(高校時代は)とにかく、困ったらストレートでした」
※1997年の夏の甲子園で兄弟バッテリーを組み、話題となった。

室戸キャンプの定宿社長 米沢善吾さん
「チームの関係者の方からは、器用な選手で何かきっかけがあれば活躍が期待できると聞いていたんですが。やっと機が熟したということでしょう」
「暗いイメージはなかった。笑い声もよく聞こえていたし、気さくで明るい青年でした」
※室戸はかつての阪神2軍のキャンプ地。

中学時代からの“専属”トレーナー 山崎浩志さん
「あの細い体で1勝できるかどうか心配でしたから、よく7年で仕上がったなと思います」
「(今でも月1回呼ばれることについて)僕だと体をよく知っているし、何でも言える安心感があるんじゃないですか」

プロ野球に入るくらいの選手は、ほとんどがアマチュア時代は輝いていた選手。それだけにこうしたエピソードはプロ野球選手の数だけあると思うなりが、成功を掴んだ今だからこそ、見ておきたい、知っておきたいエピソードなりよね。甲子園に出場したときに兄弟でバッテリー組んでいたのは知らなかったなりよ……。家族から見た藤川投手というのも、普段は明かされない一面なので、なかなか興味深いなりね。

今年は最高のシーズンを送ったとはいえ、これで終わりなわけではなく。来年以降も不動の中継ぎエースとして、故障することなく活躍を続けて欲しいものなり。

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