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<今日のなりなり>
2002年5月24日〜30/31日

 

2002年05月31日 (Fri)
さあ、2002年サッカーW杯韓日大会、開幕なり。
日本で開会式があるわけではないので、開幕についてイマイチ関心が低いような印象は否めないなりが、今日はこの話題に触れないわけにはいかないなりよね。
日本と韓国、2国での共同開催。
W杯史上初となる共同開催に至る過程を振り返るには、まず1989年までさかのぼる必要があるなり。
この年、FIFAのジョアン・アベランジェ会長(当時)が、W杯のアジア開催論を唱えたのが全ての始まりだったなり。
当時日本はバブル景気も収束に向かい始めていた頃だったなりが、アベランジェ会長はW杯スポンサーの約40%を占めていた日本企業による「ジャパンマネー」に期待し、それまでのW杯開催国である欧米に比べて格段にサッカーのレベルが下がるアジアでの開催をあえて主張。
これにより、日本と韓国の一騎打ちによる史上最大規模とも言われる招致合戦がスタートしたわけなり。
開催国が決定したのは1996年の5月31日。
1996年時点でW杯4回出場を果たしていた(54年スイス大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会)「アジアサッカーの盟主」韓国に、サッカーにおいては韓国に後塵を拝すること多々、1996年時点でW杯未出場の日本。
サッカーイベントであるW杯の招致は韓国有利で進むかと思いきや、日本も底力を発揮し、招致活動は全くの五分のまま1996年春に突入。
この時点で若干「日本有利」の情報が流れ始め、韓国側がかなり焦りを見せ始めていたなりよ。
例えばこんな話があるなり。
1996年4月、自民党の山崎拓政調会長を団長とする与党訪韓団が韓国外務省を訪れた時のこと。
韓国の孔魯明外相(当時)が懇親会の中で日韓共同開催の必然性、重要性を強く訴えてきた、と。
表向き韓国メディアは「招致活動は韓国の勝利」「韓国有利」一色だったと言われているなりが、実情は全く逆の展開だったため、国の威信に賭けてW杯招致の失敗が許されない韓国としては外務大臣が日本の国会議員に「お願い」をするほど必死だったというわけなり。
それほど焦っていたなりね。
そして1996年5月31日、運命の日。
FIFAが定めた2002年大会の開催要項には「一国開催」が明記されていたため、事前情報で有利が伝えられていた日本は勝利を確信し、劣勢が伝えられていた韓国は一縷の望みをかけてその日を迎えていたなり。
開催国選出はFIFA理事会(アベランジェ会長と8人の副会長、理事12人の計21人で構成)の投票によって決定されるなりが、事前の情報では南米は日本を、北米・中南米は韓国を支持、アジア・アフリカの票数はほぼ互角で、欧州の理事が握る8票の行方が勝敗を決すると見られていたなり。
しかしながら、将来的な欧州でのW杯共催の可能性を模索したいとの考えを持った欧州サッカー連盟のレンナート・ヨハンソン会長(FIFA副会長)の日韓共催案に欧州理事(8票)が支持を表明。
この共催案に今度はアフリカ理事(3票)が支持に回るとの情報が流れたことから、急転日韓共催案が有力となり、最終的には全会一致で日韓共催案が可決されたというわけなり。
高騰する大会運営費を二国で分散させるという共催案に流れて行ったのは、ある意味仕方のないことだったのかもしれないなりね。
コストを分散させ、スマートな大会運営を目指す「21世紀型のW杯」を模索する上でも、「アジアという実験場で一度共催をしてみるのがベスト」との思惑が働いたのかもしれないなりね。
Jリーグの川淵三郎チェアマンは「共催が決まった時には漠然と悔しかった」と語ったと言われているなりが、日本のムードはその言葉が全てを代弁しているかのような落胆に包まれた雰囲気。
一方の韓国は逆転勝利を掴み取ったかたちとなったので、日本とは対照的な雰囲気だったように記憶しているなり。
あれから早6年。
もう、本番がやって来たなり。
この6年間、日本と韓国の間にはW杯に関連すること、関連しないことを含めて様々な摩擦や軋轢があったなりが、それでもW杯開催直前のムードはなかなか良いムード。
サッカー、そしてW杯には未だに全く興味も関心もないという人が意外と多いのも事実なりが、それでもこのW杯を機に大量に日本に流入してきた韓国の文化には触れている人が多いのもまた事実。
もしW杯共催が無かったら恐らく日本では未だに知らなかっただろうな、ということが多々あるなりよね。
そういった文化交流が促進されただけでも、このW杯共催には多大な意味があったのではないかと。
この文章を書いている今、奇遇にも韓国出身歌手のBoAがホストを務め、日本・韓国・アメリカのヒットチャートを紹介する日本テレビ系深夜番組「AX01」を見ているというのも、W杯共催が無ければ有り得ないシチュエーションだったのかもしれないなり。
恐らくは生きているうちに二度と日本では開催することは無いであろうW杯。
せっかくの歴史的イベント、じっくり見ておかないともったいないなりよね。
W杯気分では無い人もまだ間に合うなり。
テレビや雑誌、インターネット、そして街の雰囲気を通して徐々にW杯気分を盛り上げましょうなり。
ちなみに、W杯に全く興味を持っていなかったコ○助の友人の一人は、ここ数日首都圏の通勤電車内に外国人の人がグッと増えてきたことで「あぁ、W杯がもうすぐなんだ」と体感し、気分が乗って来たのだとか。
電車に乗ると外国語の案内板が掲示されていたりして、それだけでも普段とは違った雰囲気。
さあ、そんな身近なところからでもぜひW杯気分を楽しみましょうなり。

2002年05月30日 (Thu)
そうそう、再びAll About JAPANのお話なり。
All About JAPANのカテゴリーである「笑えるサイト」に、以前掲載していただいたインタビューとはまた別の記事を掲載していただきましたなり。
今回は「笑えるサイト」で連載をしている「サイト運営100%大成功を目指そうシリーズ!」の「毎日更新を目指そう!」という企画に参加をさせてもらいましたなり。
そんなに大したことはコ○助も言えないところなりが、一応どんなスタンスでコ○助が二年間以上も毎日こうした更新をしてきたのかといったことに触れていますので、良かったらぜひご覧になって下さいませ。

う〜む、amazon.co.jpのアソシエイツプログラムのコントロールパネルの情報が、かれこれ1週間以上更新されないでいるなり。
このコントロールパネルでは、どれくらいNarinari.com経由で売上げがあったかということが簡単な数字で分かるようになっているなりが(誰が購入したかなどは当然分からないようになっているのでご安心下さいなり)、その数字が全く更新されていないなりね。
これを毎日見るのが楽しみだったのに(笑)。
コ○助が不正を行った覚えも無いのでアカウントが消滅したということは無いと思うなりが、単純にamazon.co.jp対応が遅延しているだけなりかねぇ。
アソシエイツプログラムに参加されている方々はいかがなりか?
コ○助だけの症状なりかねぇ。

捻挫した足が治りかけた矢先に、3日連続でバイトに入ったら足がまた変に痛みだしたなり。
捻挫した箇所ではなく、もっと上の方がじわじわと。
捻挫した箇所を無意識にかばおうとして余計なところを痛めてしまったなりかねぇ。
そんなわけで、今日も病院通いなり。
更新が遅れてしまって申し訳ないなり。
バイト、しばらく休めば良かったなり。

ではまたのちほど。

2002年05月29日 (Wed)
「ルパンには実写版があるんだよ」。
そんな話を、遠い昔に友人から聞いたことがあるなり。
確かその話を初めて耳にしたのは高校生くらいの頃、なので8年か9年ほど前のことなりか。
友人の兄貴が「ルパン三世」の大ファンで、当時レーザーディスクで限定発売された「ルパン三世」関連のLDボックスを購入したら、6枚組のうちの1枚に実写版が同梱されていた、と。
コ○助の世代はリアルタイムに「ルパン三世」の本放送と再放送を体験してきている世代なので、「ルパン三世」に関する話はごく日常的な会話のひとつ。
やれインターポールがどうしたとか、やれフィアット500がかっちょいいとか、やれ斬鉄剣でこんにゃくが切れないのは何でなんだとか、まあそんな話が「今日のお昼は何食べる」といった会話と同じくらいのレベルで交わされていたものなり。
そんな当時のコ○助も、実写版の存在は知らなかったなりね。
この映画の公開年が1974年ということを考えれば、1976年生まれのコ○助が知るわけがないのは仕方のないところ。
インターネットのような便利な情報箱のある今とは違って、なかなか本気で知ろうと思わないとそういった情報はなかなか耳に入って来なかったものなり。
実写版「ルパン三世」こと、「ルパン三世 念力珍作戦」。
一部マニアの間では有名な作品のようなりが、ビデオ化がされていないこともあってコ○助はまだ未見。
高校生の当時、コ○助の家にレーザーディスクのデッキがあれば友人の兄貴から借りて見ることができたなりが、残念ながらレーザーディスクは我が家には無かったなりよ。
なのでいまだに未見。
友人は兄貴と一緒に鑑賞したらしいなりが、その時に友人がくれたこの作品に関する情報は、「石川五右衛門は出てこない」「峰不二子はイメージが全く違う」といった断片的なもので、作品のトータルの感想としては「なにか凄いものを見てしまった」と言っていたように思うなり。
そう、この作品が面白いか面白くないかを聞いたのに、明確な回答が返って来なかったなりね。
まあアニメの実写版なんて、ちらっとだけ見たことがある「ドカベン」や「あしたのジョー」、レンタルビデオで借りて見たことがある「北斗の拳」なども全て違和感を感じる出来だったことを考えると、期待をすること自体が間違っているとは思うなりが(笑)。
高校卒業後はその存在をしばらく忘れかけていたなりが、インターネットが普及し始めてから今に至るまで、この作品の情報を探してみたところ結構多くの情報が落ちていたなり。
主演のルパンを演じるのは松方弘樹の弟である目黒裕樹、次元役は田中邦衛、銭形のとっつぁん役は伊東四郎、峰不二子役は江崎英子。
監督はクレージーキャッツ主演の「クレージー黄金作戦」や「クレージーメキシコ大作戦」といった作品で東宝のコメディ映画を支えた坪島孝。
そうそう、完全に余談なりがこの「クレージー黄金作戦」。
コ○助もちゃんと見たわけではなく、ちょっとだけ何かで見かけただけなりが、ラスベガスのど真ん中でクレージーキャッツが踊っている映像はなにやら圧巻なものがあったなりよ。
今の日本映画には絶対にないような勢いを感じさせる映像だったなり。
久々に「クレージー黄金作戦」のことも思い出したので、今度コ○助もレンタルビデオでちゃんとチェックしておくなりね。
クレージーキャッツもコ○助とはかなり世代がズレているので今まであまり触れずに生きてきたなりが、いつかは通らねばならない道のように思うなりよ。
ドリフかクレージーキャッツか、世代によって評価がまっぷたつに分かれる二大巨頭なりからね。
いずれちゃんと押さえておかねば。
で、話は戻って「ルパン三世 念力珍作戦」。
役者とスタッフを見る限りでは、かなりの意気込みで製作された作品だと思われるなりが、まあそこはアニメの実写版。
アニメの雰囲気を期待するのではなく、完全に割り切った別の作品で、かつ期待せず、バカバカしさを楽しむために見るといったスタンスで臨んだ方が良いのではないかと。
そしてコ○助はこの作品がビデオ化、もしくはテレビで放映されるのを今か今かと心待ちにしていたなりよ。
そして2002年6月。
ケーブルテレビのチャンネルガイドを見ていたら、そこには間違いなく「ルパン三世 念力珍作戦」の文字が。
これまでもCS放送や、単館の映画館のレイトショーのようなものでは上映されていたことがあったようなりが、コ○助が無理なく見られるような環境でようやく「ルパン三世 念力珍作戦」を見るチャンスが訪れてきたなり。
スカパーとケーブルテレビ向けに番組を配信している「ファミリー劇場」にて、6月2日、15日、25日に放送されるようなり。
これは絶対にビデオで捕獲しなければ。
高校の時に実写版の存在を知ってから早10年弱。
悲願達成なるか。
もうW杯のこともすっ飛んでワクワクしっぱなしなり(笑)。

2002年05月28日 (Tue)
実家の部屋を整理していると、昔コレクションしていたものがゾロゾロと。
コ○助は昔から飽きっぽい性格だったなりが、モノを収集するのは結構好きな方で、いろいろなモノの収集にチャレンジしたものなり。
いろいろなモノにチャレンジ、というあたりで、その飽きっぽい性格を垣間見ることができるなりね(笑)。
コ○助が最初にコレクションをし始めたのは小学校低学年くらいの頃。
友人の家族に川釣りに連れて行ってもらった時に使用したルアーの魅力にハマり、釣りにちょくちょく行くわけでも無いのにルアー収集をしていたことがあったなり。
ルアーって種類が豊富で、かたちも面白いものが多くて楽しげじゃないなりか。
でもお金のない小学生のコレクション。
なので、別に何か価値のあるものというわけではなく、学校帰りの途中の街にあった「釣り具の上州屋」に行っては、一番安いルアーを買い求めていたりしたなり。
そして手元に残っている多くのルアー。
大人になったコ○助は全く釣りをしない上に、ルアーにも全く興味がないので意味のないコレクションになってしまっているなりね。
決して道具として使えないものではないので、なんだかもったいない話なり。
次にハマッたのはバッジとキーホルダーのコレクション。
これはいかにも小学生らしい(笑)。
家族や友人が旅行に行った時には必ず買って来てもらっていたものや、販促ものを集めていたなりが、このコレクションは意外と長期間にわたって続けられていたのでかなりの量があるなりよ。
しかも何だか懐かしすぎる感じのものがたくさんあったりするなり。
例えばつくば万博のバッジ多数。
「くるま館」「ガスパビリオン」といった各企業のパビリオンのバッジやイメージキャラクターの「コスモ星丸」のバッジ、そして昨年話題となったタイムカプセルのバッジなどなど。
う〜む、このバッジが入っていた箱を15年ぶりくらいに開けてみたなりが、この箱自体がタイムカプセルになっているなりね(笑)。
他にも阪神タイガースの真弓明信外野手のバッジや国鉄のキャラクター「とくとくラクダ」のバッジ、1984年ロサンゼルスオリンピックのキャラクター「イーグルサム」バッジなどなど。
懐かしいだけで何の価値も無いなりが、でもこうやって今昔を回顧している時点でこのバッジをコレクションした意味があったなりか。
他には切手。
そう、切手もちょっと集めていた時期があったなり。
なかなかコ○助の世代では切手のコレクションをしているという人を聞いたことが無いなりが、コ○助も自分からその道に足を踏み入れたわけでは無いなりよ。
たまたま祖母が切手をコレクションしていて、ひょんなことからコ○助がそのコレクションを引き継ぐことになったなりよ。
自分のコレクションというよりは祖母のコレクションなわけなり。
なので自分で買い足して行ったコレクションの数よりも、もともと貰ったものの方が多いため、コレクションの中心は昭和30年代くらいの切手が多かったりするなり。
東京オリンピックの切手とか(笑)。
まあそういう意味ではコ○助のコレクションとは言えないなりか。
他には、一時スウォッチを集めていたこともあるなり。
スウォッチがまだ今ほど認知されていなかった頃、知人が海外のおみやげとして「これ海外でしか売ってない限定モノなんだよ」と言ってくれたのがきっかけでコレクションの道に。
東京・新宿にかつてスウォッチのミニ博物館のようなものがあり、たくさんのプレミア付きスウォッチが陳列されていたなりが、それを見たら猛烈にコレクションしてみたくなったなりよ。
やっぱりプレミアが付くものって、俄然気持ちがたかぶるじゃないなりか(笑)。
なんと動機が不純なんだか。
スウォッチがかなりブームになった時期が、コ○助が高校生くらいの時にあったなりが、そのときには結構な数を購入してみたなりよ。
他のコレクションモノに比べて、ひとつの単価が高い時計なのでそれほど頻繁に購入していたわけではないなりが、ざっと30〜40本くらいあるなり。
って、この数がハンパなのが嫌なりが(笑)。
多いわけでも無く、少ないわけでも無い。
今思うとこういうハンパなコレクションが非常に多く、他にはテレホンカードや映画の前売り券、映画のチラシ、UFOキャッチャーの人形などなど、本当に「私は飽きっぽいダメ人間です」と言っているかの如く、ハンパなコレクションばかり。
なんともお恥ずかしい。
今は何もコレクションと言えるものは無いなりねぇ。
もうそんな自分に嫌気がさしているのかもしれないなり(笑)。
皆さんは何かコレクションをされているものってあるなりか?
そしてコレクションを続ける秘訣とは。
秘訣なんて無いなりか(笑)。
性格的な問題が大きいなりよね、きっと。
でも何かあればこっそりと教えてやって下さいなり。

2002年05月27日 (Mon)
コ○助は残念ながら詩には全く興味がないなり。
とは言っても、その世界を全く覗いたことがないというわけではなく、一応中学生から高校生にかけて果敢にチャレンジをしてみたことはあったなりよ。
まずとっかかりは、コ○助が馬好きだったこともあって寺山修司から。
次に友人に連れられて見に行った映画の試写会とセットになっていたトークライブに出演していたのが縁で読んでみた谷川俊太郎。
国語の授業で触れた「ふるさとは遠きにありて思ふもの」が印象に残った室生犀星。
高校の時に交際していた彼女が好きだった俵万智。
いろいろと手を出してみたなりが、どうもコ○助にはフィットしない。
これはひとえにコ○助の感受性が薄いということなのかもしれないなりが、手を出してみたもののサッパリ興味が湧かなかったということで、高校卒業後は全く詩と関わることの無い生活をしてきたなり。
歌とかもコ○助にとっては歌詞はさして重要ではなく、あくまでも楽曲の良さだけが取捨選択を分けるという嗜好の持ち主なので、基本的にそういった「言葉の芸術」といったものが合わないのかもしれないなりね。
コ○助がそんな人であることを重々知りながら、友人がコ○助を「ポエトリーリーディングに行かないか?」と誘って来たなり。
「ポエトリーリーディング」。
平たく言えば詩の朗読会。
なんでもそんなにかしこまった会ではなく、音楽のライブと詩の朗読などが組み合わさったイベント的なものなのだとか。
出演者も全員若い人たちなので、小難しいものでも無いというなり。
でも詩は・・・というコ○助に有無を言わさない強引な友人に連れられ、気が付けばイベントの行われる会場の中に。
ふぅ。
仕方ない、今日は付き合ってやるなりか。
でも表向きそういうスタンスでいながら、実は詩の朗読会、横文字になっている「ポエトリーリーディング」なる未体験ゾーンへ足を踏み入れることに密かに期待をしている部分もあったなり。
会場はこじんまりとした舞台があるバーといった感じのところ。
席数は20〜30といったところなりか。
この日のイベントに出演していたのは4組のアーティスト。
NHKの人気番組「真剣10代しゃべり場」の第5期メンバーの中で「奄美から来た吟遊詩人」として出演していた福永幸平さん
1999年の「@niftyオリジナルソングコンテスト最優秀歌詞賞受賞」という輝かしい受賞歴をお持ちで、「駅員」をテーマにした詩や歌を発表し続ける松岡宮さんなどなど。
実際にこういったイベントを見てみて感じたのは「思っていたよりも取っつきにくいものではない」ということ。
コ○助が中高生の頃に目にした著名な詩人の作品とはまた一線を画した、全く別の「詩」という世界がそこにはあったなり。
まあそれが良いのか悪いのかといった判別まではコ○助にはできないなりが、詩のテーマとなるものも身近にあるものだったり、コミカルな要素を含んでいたりと、コ○助の詩のイメージとはちょっと違うものだったなりよ。
そういう意味では無理矢理でも連れて行かれて良かったかな、と。
だからと言って詩に興味を持ったというわけでは無いなりが(笑)。
ただ、「ポエトリーリーディング」なるものに抵抗が無くなったのは確かなので、また機会があったら行ってみようかな、とは思ったなりね。
なので友人には感謝しておくなり。
皆さんは詩とかお好きなりか?

2002年05月26日 (Sun)
ショックなり。
何がショックって、つい昨年の11月25日まで「北野印度会社」軽井沢店が営業していたなんて。
もうとっくに潰れていたかと思いこんでいたなり。
「北野印度会社」。
それはコ○助が後にも先にも1回しか食べに行ったことが無いカレーショップ。
でも、とても思い入れの強いお店だったなり。
「北野印度会社」はその名の通り、ビートたけし(北野武)の冠がついたカレーチェーン。
日本テレビ系バラエティ番組「天才たけしの元気が出るテレビ」の企画としてスタートしたチェーン店だったため、当時「元気が出るテレビ」の大ファンだったコ○助は食べに行ってみたくて仕方がなかったなりよ。
正確な年齢は覚えていないなりが、たぶんコ○助が小学4〜5年生くらいの頃だったのではないかと。
ところが、「北野印度会社」は東京には確か出店をしておらず、コ○助の家から最寄りのお店は長野県の軽井沢店だったなり。
バブル期全盛の当時、軽井沢は原宿、嵐山と並ぶ「タレントショップの聖地」と呼ばれており、そこにはとんねるずの「バレンタインショップ」や田代まさしの「マーシーズ」、聖飢魔Uのタレントショップ(名前失念)から「梅宮辰夫のお漬物屋」に至るまで、様々なショップが軒を連ねていたなりね。
もはや「タレントショップ」という単語を発するだけで小恥ずかしいものがあるなりが(笑)。
まあそんな時代が確かにあったなり。
東京から軽井沢はそう遠くないとはいえ、それでも特急電車で2〜3時間(当時)ほどの距離。
小学生のコ○助にとっては「じゃあ日帰りでカレー食べに行こう」という距離では無かったので、「北野印度会社」を訪れることは困難な状況だったわけなり。
ところが。
ちょうどタイミングよく、コ○助の叔父が軽井沢に車で旅行に行こうと思っていたというなりよ。
これは願ってもないチャンスと思ったコ○助は、無理矢理叔父にくっついて軽井沢へと向かい、「北野印度会社」行きのチャンスをうかがったなり。
でも、叔父はまだ開店したばかりの「北野印度会社」が何なのかということから理解をしておらず、チェーン店のカレーをわざわざ食べに行きたいとはあまり思っていない様子。
無理矢理付いてきた手前強くお願いをすることができないコ○助はドキドキしながらその機会を狙っていたなり。
しかし。
軽井沢滞在最終日の晩ご飯を食べた段階で肝心の「北野印度会社」にはまだ行くことができていなかったなり。
これでは何のためにコ○助が軽井沢まで来たのか。
「どうしても行きたい、行きたい、行きたい」と涙ながらに訴えると(記憶では泣いて懇願していたように思うなり)、さすがの叔父も重い腰を上げて連れていってくれるというなりよ。
今思えば勝手に付いてきたにも関わらず、泣きながら駄々こねられたら、大人の対応をするしか無いなりよねぇ。
叔父には本当に悪いことをしたなり。
でも、晩ご飯は既に食べた後。
お腹が空いているわけでも無かったなりが、このチャンスを逃すと明日はもう東京にいるという極限のシチュエーションの中で、もう選択の余地は無かったなり。
ようやく「北野印度会社」に着くと、そこにあったのは行列だったなり。
時間は夜8時頃だったように思うなりが、それでも開店間もないこともあって行列ができていたなりね。
叔父は明らかにさえない顔。
「腹一杯なのにこの行列に並んでカレー食べるのか」と今にも言い出しそうな顔をしていたのを、今でもよく覚えているなり(笑)。
行列はなかなか進まなかったなりが、どうやらテイクアウトもできるようで、そちらはちょっと空いている様子。
なので、テイクアウトをして車の中で食べることになったなり。
「北野印度会社」のカレーの特徴は2種類のカレーを楽しむことができること。
舟形をしたカレー皿の真ん中にご飯が盛られ、その両サイドにそれぞれのカレールーが注ぎ込まれる。
そんなカレーだったなりよ。
実際に食べてみてどんな味だったかまではさすがに覚えていないなりが、美味かったことだけは覚えているなり。
タレントショップだからといって不味いものでは無かったなりね、確か。
この時車の中で叔父と共に1つのカレーを分け合った思い出。
これが後にも先にも1回ポッキリのコ○助の「北野印度会社」体験だったなり。
それから10年以上の月日が経ち、実家の部屋を整理していると。
もうその存在をすっかり忘れていたコ○助の目の前に「北野印度会社」のグッズがぞろぞろと出てきたなりよ。
そう、記憶にはあまり無かったなりが、叔父に頼んでどうしようもない無駄なタレントグッズを買ってもらっていたらしいなりよ。
一番保存状態が良かったのは白い象にビートたけしの人形がちょこんと座っているデザインの陶器の水差し
コップもあったなりが、ちょっと欠けてしまったりしていて、保存状態はあまり良くないのが残念なところなり。
そんなわけで「北野印度会社」のカレーを猛烈に食べたくなったなりが、もうその願いが叶うことは有り得ないなりね。
そう思うと何だか切ないものなり。
こんなことになるなら、昨年行っておくべきだったなりよ。
悔しいなり。
悔やんでも悔やみきれないなり。
皆さんは「北野印度会社」、行かれたことあるなりか?
結構最近まで嵐山やハワイにも店舗があったようなので、「北野印度会社」に行ったことがある人は多いかもしれないなりね。
皆さんには「北野印度会社」への思い出なんてのはあるなりか?

2002年05月25日 (Sat)
掲示板やメールで多くの励ましのメッセージやアドバイスをいただきまして、有り難うございましたなり。
おかげさまで、ちゃんと整形外科から行くという正しい道を歩むことができたなり。
幸い骨や腱には問題が無かったので、重度の捻挫とのこと。
当分はびっこひいて歩くようなりが、自分の不注意が原因なので我慢するしか無いなりね。
でも皆さんからのメッセージを励みに、頑張っていきますなり。

今日はぽかぽか陽気なので窓を開けながら更新をしていたら、本当に部屋の中までぽかぽかに。
前日ほとんど寝てないこともあって、不覚にもキーボードに手を添えたまま、眠りについていたなり(笑)。
コ○助の住む街は、なにやら今日はお祭りでもあるようで外からはお囃子の音が聞こえてくるなりよ。
なんだか風流なりねぇ。
このままポケーッとしながら生きて行きたいなりねぇ。
なんて思っている暇は無いなり。
早く更新をせねば(笑)。
まさか昼寝をするとは思わなかったなりが、まあケガ持ちの上に寝不足だったのでご容赦を。
しっかし、いい陽気なりねぇ。
もう夕方近い時間になってしまったことだし、今日はライトな感じで進行させていただきますなり。
明日は気合い入れて「今日のなりなり。」を書きますので、お楽しみに。

最近、あまり腹が空かないなり。
そういうとちょっと語弊があるなりが、魚の骨を使った低カロリーでカルシウムいっぱいのおつまみ系のものをたくさんいただいてしまい、それを少しずつポリポリ食べていると朝から晩まで全く腹が空くという状態にならないなりね。
このおつまみ系のものは1パッケージ(結構量があるなりが)あたりのカロリーは287Kcalと低めで、カルシウムは2342mg、ナトリウム356mgと書いてあるなり。
朝起きた直後から夕方くらいまで更新作業を続けるというコ○助の生活パターンの性質上、こういったもので夕方まで腹が持つというのは何だかちょっと新しい発見だったなりよ。
なので、ここ数日はこれを1パッケージ、朝から夕方にかけて食べて、夜は軽めにちゃんとしたものを食べる。
もちろん、夜は野菜を中心に足りないモノを補うという心がけでメニューを選んでいるなりね。
でも実質1日1食のようなもの。
そんな変な食生活となってしまっているなり。
たいしたゴミも出ないし、食事を作る手間もないし、何よりもコンビニ弁当などを買わなくてすむし、正直楽なりよ。
この魚の骨のおつまみ系のもののパッケージには身体に良いよ、とバッチリ書いてあるなりが、でもきっとこれを主食にされることは想定していないと思われるので、一見身体に良さそうなものを食べて身体を悪くしていないか疑問を抱きつつも、楽な方に流されて食べてしまっているなり(笑)。
まあいただいた分が無くなるまでは当分この生活をしてみようかと。
あ、そうそう、それに加えておつまみ系のものを食べる時には牛乳を飲むことにしているなりよ。
カルシウムダブル攻撃で骨を増強!という深い考えや期待があるわけでは無いなりが、なんとなく気が付いたら飲み始めていたなり。
これであと毎日運動したら25歳にして一気に背が伸びるのでは・・・なんて期待をしつつも、捻挫しているので運動もできず(笑)。
ちっ、せっかくのチャンスなのにもったいないなり。

さて、お気づきの方もいるかもしれないなりが、実はコ○助は先月から掲示板への書き込みを自粛していたなり。
この1ヶ月ちょっとの間もたくさんの方に書き込んでいただいたのを見て、コ○助も楽しんで読ませていただいているなりが、先月書き込まれた、とある書き込み(現在は削除済み)をきっかけに掲示板に書き込むパワーを消耗しきってしまったため、なかなかコ○助が楽しい気分で掲示板に面と向かうことができないでいたなりよ。
掲示板に登場してこない管理者は、管理者失格ということは重々承知しているなりが、意外とヘコみ体質なりよ、コ○助は(笑)。
でもようやく気分もリフレッシュできてきたので、近々完全復活をしたいと思いますなり。
楽しい雰囲気で掲示板も運営したいじゃないなりか。
皆さんからも楽しい話題をふっていただけると、コ○助としても嬉しいなぁ、と。
今までもずっと書き込んでいただいていた皆さん、これからもどうぞよろしくお願いしますなり。
また楽しいお話をいたしませう。

ではまた明日なり。
ニュースはちょこちょこ更新する予定なのでぜひチェックを。

2002年05月24日 (Fri)
自分の不注意でケガをしてしまったなり。
昨日、駅の階段を下りている時に珍しい人からメールが入り、ついついメールを読みながら階段を下りていると。
階段を踏み外してちょいとコケてしまったなりよ。
転落といった派手なコケかたではなく、2段くらい踏み外した感じ。
そして左足が着地した時に、変な方向に足首が曲がってしまったなり。
いやはや、こんなに自分が間抜けだとは思わなかったなりよ(笑)。
そんな足下も見ずにメールを読みながら階段を下りたら危ないことくらい分かっているなりが、本当にタイミング悪く珍しい人からのメールだったので、早く読もうと気が急いていたなりね。
足首を捻ってから10時間ほどが経過しようとしているなりが、足首の痛みは徐々に増してきているなり。
一応湿布を貼ってサポーターで固定してみているなりが、じわじわと痛みが増している模様。
あぁ、元気に飛び跳ねていた頃が早くも懐かしいなり(笑)。
ケガや病気をした時ってのはだいたいそう思うものなりよね。
今のコ○助はかなり弱気になっているなり。
しかし、捻挫を馬鹿にしてはいけないとよく言うなりが、整形外科などに行って診察をしてもらうと、レントゲン撮影をして、湿布薬をくれるだけということが多い、なんて話をよく聞くなり。
それじゃあ医者にわざわざ行っている意味があまり無いような。
まあ一応整形外科に行って、骨折や腱を切っていないかといったことを確認すること自体は良いことだと思うなりが、治療ではないなりよね。
そうそう、本当に階段から落ちてとか、ちょっと転んでといったケースで骨折や腱を切ってしまうことってあるなりよね。
コ○助の友人で、転んだ時に捻挫かと思って放っておいたら、実際は腱が切れていたとかで手術をした人もいるなりよ。
コ○助の足首の曲がり方、曲がった時の激痛の走り方がちょっと今までに体験したことが無いものだったので、自分の中では心配だったりするなり。
その時一緒に歩いていた友人は階段でコケたコ○助を見て爆笑。
その後コ○助が真剣に痛がっている様子を見て一転心配をしてくれたなりが、笑うなんて酷いなりよねぇ(笑)。
見ていた人が笑いも醒める、そんな痛さだったなり。
で、話を戻して病院のこと。
形成外科ではなく、整骨院や接骨院の方が捻挫の場合には良いよ、という人もいるなり。
でも、コ○助は実は整形外科も整骨院も接骨院も、どこも行ったことが無いなりよ。
えぇ、コ○助は健康優良児なりからね。
なのでどこに行けば良いのかよく分からず。
まずは整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらうのが良いかな、と。
で、ただの捻挫だと分かったら整骨院などに行ってみようかと思うなりが、これで間違ってないかとちょっと心配なところなり。
はぁ。
それにしても、本当に後悔。
なんでメール見ながら階段なんて・・・。
後悔先立たずとはよく言ったものなり。
そんなわけで、今日はちょっと病院巡りをしたいと思いますなり。
骨折とかだったらどうしよう・・・。
でも更新のことを考えると入院なんてできないし・・・。
と、大袈裟に考えてしまうほど、ちょっと痛いのが嫌なところ。
しかしそれにしても痛い(笑)。
えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。
どうかコ○助の無事を祈っていて下さいなり。
どうかただの捻挫でありますように。