1890年(明治23年)、日本に派遣されたオスマン帝国(現トルコ)軍艦が帰路、台風に遭遇し、和歌山県沖で岩に衝突して座礁した。乗組員の大半は死亡したものの、69人は紀伊大島に流れ着いた。島は台風によって食料が尽きかけていたのだけど、島民は初めて見たであろう外国人に対して非常食用の鶏をつぶしてスープにし、遭難者たちに提供した。翌日には県を通じてこのことを知った政府が全力を尽くして援助を行うように支持し、神戸の病院へと搬送。69人全員が生き残っている
生存者たちは、日本軍艦によってオスマン帝国に送り届けられたのだけど、この「エルトゥールル号遭難事件」をきっかけに日本とトルコの友好関係が始まり、トルコの人たちは現在もこの恩義を忘れていないのだという。実際に、1985年のイラン・イラク戦争時、イラクは「イラン上空を飛んでいる飛行機は民間機であろうと打ち落とす」と宣言し、日本政府の不手際から刻限までに在イラン邦人たちが脱出できない状況にあったところへ、トルコ政府がトルコ人が乗るはずの特別機を分けてくれたため、在イラン邦人約200人の命が救われている。イランに残っていたトルコ人たちは、陸路で移動したのだそう。
ところが、こうしたトルコ人たちの友好の心を踏みにじるような事態が起きているのだそう。新潟県柏崎市に建設された「柏崎トルコ文化村」というテーマパークにあった、トルコ政府から寄贈された銅像が、横倒しのうえに草むらの中で野ざらしになっているのだ。
「柏崎トルコ文化村」は、96年に開業したトルコの文化や料理などを紹介するテーマパーク。なぜ「エルトゥールル号遭難事件」の慰霊碑がある和歌山県串本町でなく柏崎市なのかがよく分からないのだけれど、一風変わった遊園地として地元では話題となったようなのだ。しかし、99年に多額の融資を受けていた新潟中央銀行が破綻すると資金繰りに苦しみ、01年に休業。翌年に柏崎市が買い取って地元企業が出資した新会社が借り受ける形で再開したのだけど、04年に新潟県中越地震によって入場客が減少したために再び閉鎖している。
柏崎市は、トルコ政府も巻き込んで文化村の譲渡先を公募し、さまざまな問題が発生しながらも結局は新潟県の企業に譲渡された。この会社は今年6月に施設を改修して結婚式場を建設したのだけど、7月の新潟県中越沖地震で傾いた像を台座から外し、草むらの中に横倒しにしたまま放置していたのだ。
この像はトルコのケマル・アタチュルク(ムスタファ・ケマル)初代大統領が馬に乗っているもので、同大統領はトルコ革命の指導者で「トルコ建国の父」と呼ばれている。また、「エルトゥールル遭難事件」の義捐金を呼びかけてトルコに渡り士官学校で教鞭を執った山田寅次郎(宋有)の教え子でもあるのだそう。まさに日本とトルコの友好を表現している銅像と言えるのだ。
ところが、譲渡された会社の社長は「いつまでもトルコのことを言われるのは正直、迷惑な話。市が移転するなど至急対処してほしい」(産経新聞より)とコメント。この社長に通告書を突きつけられた柏崎市長も「市の物ではない」として何も対処しない考えを示している。
こうした友好を踏みにじるような行為に対して、柏崎トルコ友好協会の仁木賢理事長は「寄贈されたものをあんな状態で放置するとは。エルトゥールル号の遭難以来、115年を超える信頼関係を裏切る行為だ」(産経新聞より)と憤慨。市民からも「非礼だ」という声が上がっているのだとか。まさしくその通りなのだ。
現在はブルーシートをかぶせているのだけど、野ざらしとほとんど変わりはないような気がする。トルコ文化村として買い取ったわけではないけれど、引き受けた以上、トルコに返還するなり串本町に寄贈するなり、最後まできちんと対処してほしいのだ。この像の有様を見てトルコ人が心を痛める前に……。