元プロ野球選手の稲尾和久さんが死去、西鉄黄金時代の「鉄腕」。

2007/11/13 19:15 Written by コジマ

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今季、不振を極め5位に終わったプロ野球の西武。25年連続Aクラスの記録が途切れ、伊東勤監督が引責辞任した。同じく生え抜きの渡辺久信監督が就任し、来年1月1日に球団名も「埼玉西武ライオンズ」に変更する予定(11月14日のプロ野球オーナー会議で承認されれば正式決定)で、来季は心機一転、再び黄金時代を目指してスタートを切るのだ。ファンの間では、大久保博元氏が打撃コーチに就任したことに不安が広がっているようだけど。

西武はプロ野球が2リーグに分裂した1949年に西鉄クリッパーズとして始まったのだけど、西鉄ライオンズに改名後、56〜58年に日本シリーズ3連覇を達成している。このライオンズの第1次黄金期を支えた「鉄腕」こと稲尾和久さんが11月13日、悪性腫瘍のために70歳で亡くなった。その快速球と清廉で温厚な人柄を偲んで、関係者からファンまでが悲しみに包まれたのだ。

稲尾さんは、1956年に福岡が本拠地だった西鉄に入団。入団当初は期待されていなかったのだけど、打撃投手としての投球を見た主力の中西太氏、豊田泰光氏らが三原脩監督に進言したことによって開幕で一軍に登録。ルーキー年で21勝6敗、防御率1.06(最優秀防御率賞)の大記録を打ち立てて新人王を獲得したのだ。この防御率は、いまでもパ・リーグ記録となっている(当時は154試合制)。

57年にはプロ野球タイ記録となる20連勝でシーズン35勝で最多勝、58年にも33勝で最多勝となると、巨人との日本シリーズで第1戦、第3〜7戦に先発するという、いまでは考えられない起用に応え、第4〜7戦で4連勝。まさに「鉄腕」なのだ。この活躍に加え、第5戦では日本シリーズ史上初のサヨナラ本塁打を放ったことから、優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」という見出しがおどった。中西、豊田両氏のほか、大下弘氏や仰木彬氏とともに、「野武士軍団」の一員として西鉄黄金時代を支えたのだ。

肩の酷使から66年に抑えに転向後も、最優秀防御率賞を受賞。プロ野球タイ記録のシーズン42勝(61年)、デビューから8年連続20勝(56〜63年)、3年連続30勝(57〜59年)、25歳で200勝達成(62年)など、いまでも破られていない数々の記録を残して69年に引退し、最年少で西鉄の監督に就任した。球団売却後も太平洋で続投し、中日の投手コーチ、ロッテの監督なども務めて、93年には野球殿堂入りしているのだ。

監督退任後は解説者や沢村賞の選考委員、マスターズリーグの福岡ドンタクズの監督などを務め、今年10月には故郷の大分県別府市に「稲尾記念館」が完成し、その落成式で元気な姿を見せていた。しかし、10月30日に手足のしびれを訴えて、検査のために福岡市内の病院に入院。病態が急変し、11月13日の午前1時21分に悪性腫瘍のために亡くなった。

この訃報に、同僚だった中西氏や豊田氏のほか、ライバルだった川上哲治氏や広岡達朗氏、土橋正幸氏、長嶋茂雄・巨人終身名誉監督、王貞治・ソフトバンク監督らは驚きつつ、その死を惜しむコメントを寄せている。南海時代にしのぎを削った野村克也・楽天監督は「同じ世代が逝ってしまって寂しくなるな。彼との対決は頭脳勝負で楽しかった。一流が一流を育てる。彼のおかげで生きてこられたようなものだ」(サンケイスポーツより)と、プロ野球史上、いかに大きな存在だったかを語っているのだ。日刊スポーツでは、「鉄腕稲尾特集」と題してその軌跡をたどっている。

ぼくは世代的にズレているのだけど、稲尾さんの伝説の数々はぼくらの世代でも話題になったほど。チームのため、プロ野球のために捧げた70年、いまはゆっくりと「鉄腕」を休めてほしいのだ。


☆稲尾和久さん通算成績

756試合登板(歴代7位)
276勝137敗(歴代8位)
防御率1.98(歴代3位)
2574奪三振(歴代8位)

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