吉川英治の小説や横山光輝の漫画などによって、日本でも絶大な人気を誇る中国の「三国志」。陳寿が西晋時代に編纂した歴史書なのだけど、のち(明代)に羅貫中らが創作した「三国志演義(三国志通俗演義)」は中国の四大奇書に数えられ、多くの人を虜にしてきた。ぼくも中学生の頃に“横山「三国志」”と出会い、日本武尊や卑弥呼らが登場する神話時代(成務天皇時代)だった日本に比べ、中国はこんなにも進んでいたのかと驚いたのだ。
その「三国志演義」の主人公である劉備は、長い流浪の生活を経た末に名軍師・諸葛亮(孔明)の助言から、221年に現在の四川省にあたる土地に蜀を建国した。現在も省都として名を残している首都・成都ではその時代の英雄をまつる「武候祠」が観光スポットになっているのだけど、ここに建国した理由は長らく、曹操の魏、孫権の呉以外に残された最後の土地だったからとされていた。言うなれば、兵力の少なかった劉備たちが守りやすい山間部に追い込まれた形といわれてきたのだ。
ところが10月27日、四川省成都市蒲江県にある古石山という遺跡で、日中の調査隊が三国時代より前の後漢代に造られたとみられる製鉄炉の跡を発見したのだ。これにより、劉備たちの蜀建国の理由が変わってくる可能性が出てきたのだそう。
中国では紀元前から鉄の製錬が始まっており、漢代には製鉄所が多数造られたのだそう。ただしそれは中心部の中原と呼ばれる地域ばかりで、今回の発見は中原以外では初めてのことなのだとか。発見されたのは、高さ1.5メートル、幅最大1メートルのレンガ造りの遺跡で、高さ4メートルにものぼる大きな製鉄炉だったのではないかとされている。
もともと漢代よりずっと前にあたる秦の始皇帝時代にその場所へ鉄生産の役所を置いたという記録があったことから発掘調査が進められていたのだけど、炉の規模は日本で幕末から明治にかけて造られたものと同じというから、この時代の中国がかなりの文明先進国だったことが裏付けられるのだ。
調査隊の一員である愛媛大の村上恭通教授(考古学)は、この遺跡の発見によって「諸葛孔明や劉備たちは山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために積極的に入っていた可能性がある」(読売新聞より)としており、蜀建国の理由を一変させる可能性まで出てきているのだ。
気が遠くなるほど昔のことのために分からない部分や伝説化されている部分が「三国志」の魅力ともなっているのだけど、きちんとした史実を知るのも、それはそれでとても興味深いのだ。