史上初の「親子50本塁打」、ブルワーズのP・フィルダー選手が達成。

2007/09/27 09:52 Written by コ○助

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1980年代後半、最下位低迷が続いていた阪神に「現役メジャーリーガー」の触れ込みで助っ人としてやって来たセシル・フィルダー氏を覚えているなりか? その巨体からポンポンとホームランを量産する様は、それまで阪神ファンの脳裏に焼き付いていたランディ・バース氏を彷彿とさせる名助っ人だったなりよ。

来日1年目にいきなり打率.302、38本塁打、81打点と強烈なインパクトを残し、向こう何年かは「阪神の助っ人は安泰」とファンの誰もが思ったものなりが、1989年9月に事件が起きてしまったなり。三振に腹を立てて地面に投げつけたバットがフィルダー氏の小指に当たってしまい骨折。シーズン終了を待たずして米国に帰国し、二度と阪神に戻ってくることは無かったなりね。

翌1990年、骨折も癒えたフィルダー氏はデトロイト・タイガースと2年契約を結びメジャーに復帰。1年目から打率.277、51本塁打、132打点の活躍で本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、続く1991年には打率.261、44本塁打、133打点で再び本塁打王と打点王のタイトルを獲得。1992年には打率.244、35本塁打、124打点で3年連続の打点王に輝くという偉業を達成したなりよ。ア・リーグの3年連続打点王は、あのベーブ・ルース以来という、まさに快挙だったなりね。日本からの出戻り選手のサクセスストーリーとして、フィルダー氏の名は今もなお語りぐさとなっているなりよ。

その後、フィルダー氏は1996年にヤンキースに移籍。シーズン通しての活躍はできなかったなりが、ワールドシリーズでは抜群の勝負強さを見せるなど、非常にインパクトの強いプレーを見せていたなり。そして、成績の低迷を理由に1998年に現役を引退。日米で活躍をしたプレーヤーとして、野球ファンの間では広く認知されているなりね。

華々しい野球人生を送ったフィルダー氏なりが、現役引退直後の1999年2月に「トランプカジノの店で数時間のうちに58万ドル(約6,380万円)を使った」のを手始めに、ギャンブルで莫大な借金を抱え、失踪してしまったというニュースが突然出たなりよ。当時別居中の妻(後に離婚)は、12歳(当時)の娘との生活費が送られて来ないため、生活に困窮していると報じられ、「フィルダーは何をやっているのか」と日本でも大きな話題を呼んだなりね。

前置きが長くなったなりが、そんなフィルダー氏の息子プリンス・フィルダー内野手は、いま、ブルワーズで活躍するメジャー屈指の巧打者に成長。2002年、ブルワーズにドラフト1巡目で入団、2006年にレギュラーに定着してからはすぐに頭角を現し、今年は大ブレイクを果たしているなりね。そして、9月25日(現地時間)にカージナルス戦で2本の本塁打を放って50本塁打の大台に到達。史上最年少(23歳139日)の50本塁打という歴史に残る快挙を達成したとともに、父セシル・フィルダー氏とのメジャー史上初の「親子50本塁打」に到達したなりよ。

ギャンブル癖によって蓄財を放出してしまった父とは絶縁状態と伝えられているのは寂しい状況ではあるなりが、現在、セシル・フィルダー氏は独立リーグの監督を務めるまで立ち直っているそう。「親子50本塁打」をきっかけに、少しでも関係が修復されると良いなりね。

今後もプリンス・フィルダー選手の名前は日本でもよく目にするようになるはず。皆さんもぜひご注目くださいませ。

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