硫黄島の激戦が克明に、生還者の手記をネットで公開。

2007/01/30 18:05 Written by コジマ

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アカデミー賞候補となった映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)の大ヒットによって再注目されている硫黄島戦。日米双方で約2万7000人が戦死した太平洋戦争屈指の激戦だけど、2万933分の804の確率で生還した日本兵の手記がネットで公開され、話題になっているのだ。

手記を遺したのは、31歳の時に陸軍工兵兵長として硫黄島に配属された高知県須崎市出身の故高橋利春さん。硫黄島戦で背中を撃たれる重傷を負いながら米軍の捕虜となり、1946(昭和21)年2月に帰還した。その後、高知県土佐清水市の清水署に勤務した後、1986年に74歳で永眠した。

家族に戦争の話をほとんどしなかったという高橋さんだけど、孫の藤原貴宏さんが高橋さんが遺した中国戦線と硫黄島戦、そして捕虜生活の手記「戦闘体験記」を発見。約4万という膨大な文字を原文通りに入力し、3年前にホームページ「祖父の硫黄島戦闘体験記」を開設して公開したのだ。

その手記を見てみると、

〈我等は工兵であり、爆弾作りは専門家である。たちまち20キロ爆弾を各自が作った。これを背負って敵の戦車に我が身諸共飛込むのである。夜になるのを待って、爆弾を各自背負う。銃をさげた。誰も何にも言わぬ。言いたくもない。明朝はいやでも散らねばならぬのだ。〉

〈横山が伸び上がりながら下をのぞいた。アッ痛いと言った。うつ伏せになった。下から銃声が起こった。やられたのだ。私が引き起こしたが駄目だった。胸から背中にかけて撃ちぬかれていた。〉
〈妻子には生きて帰ると言って家を出たが、もはや生きる望みはなくなった。やむを得ん。許せ、父は死ぬがおまえらは地下から守ってやるぞ、と心で叫んだ〉

など、凄惨な戦場を克明に記している。

藤原さんのホームページは、「硫黄島からの手紙」の公開と同時にアクセス数が急増。1日1万2000件を記録した日もあったのだそう。

こうした手記を読むと、戦争の凄惨さとともに、かつての日本人の誇り高さが伝わってくる。高橋さんは、部隊が全滅して1人だけになった時に、米兵が囲む中に飛び出て「撃て!」と胸をたたいたのだそう。手記の中にある〈中のよかった同県人の矢野軍曹も死んだ。涙が落ちる、止むを得ん戦争なんだ。〉という記述が、ぼくの頭から離れない。

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