JRA初の賞金10億円突破の名馬、メジロマックイーンが急死。

2006/04/04 08:55 Written by コ○助

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これまで何度も名馬や名種牡馬と呼ばれる競走馬の死をお伝えしてきたなりが、またしても悲しい、実に悲しい一報が届いてしまったなり。菊花賞、天皇賞・春の連覇、宝塚記念とG1を計4勝し、JRA初の「賞金10億円馬」となったメジロマックイーンがけい用先の社台スタリオンステーション荻伏で心不全のため急死してしまったなりよ。何の因果か、亡くなった4月3日はメジロマックイーンが19年前に産声を上げた日。誕生日が命日となってしまったなりね。馬にとって19歳で死ぬことは早逝というわけではないなりが、ひとつの時代を作った名馬の死はいつでも悲しいものなり。

コ○助が初めてメジロマックイーンを意識したのは、忘れもしない1990年10月、たまたまテレビで見ていた嵐山ステークスだったなり。同年2月の新馬デビュー以来、やや勝ちきれないレースが続きクラシック戦線に出遅れたメジロマックイーンだったなりが、かねてから晩成タイプのステイヤー(長距離が得意な馬)と見られていたため、芝3000メートルで行われる菊花賞に出走してくればチャンスはあると言われていたなりよ。

当時、通常のクラシック戦線のローテーションでは菊花賞の前哨戦である神戸新聞杯や京都新聞杯に駒を進めるのが通例だったなりが、メジロマックイーンが菊花賞のステップレースとして出走したのが1500万条件の嵐山ステークスだったなりね。菊花賞と同じ京都競馬場の芝3000メートルのレースだったなりが、古馬との混合レースという厳しい条件ながらメジロマックイーンは2着となり、菊花賞への期待が一気に膨らんだなりよ。そして菊花賞では4番人気とファンからも熱い支持を受け、見事に快勝。いまでも2着に入ったホワイトストーンとの「芦毛のワンツーフィニッシュ」の光景が目に焼き付いているなりね。

その後は長距離路線を中心にスター街道をまっしぐら。3度出走した天皇賞(春)が思い出深いのはもちろんなりが、1991年6月の宝塚記念でのメジロライアンとの名勝負、同年10月の天皇賞(秋)での「1着入線→18着に降着」事件、最後のレースとなった1993年10月の京都大賞典をレコードで優勝した後の左前繋靭帯炎での突然の引退。語り始めたらきりがないほど、エピソードの詰まった馬だったなり。

引退後は種牡馬としての活躍を期待されたなりが、現在のところ目立った活躍馬はエイダイクイン(1998年のクイーンカップ)、タイムフェアレディ(2001年のフラワーカップ)程度で、それほど成功しているとは言えないなりよ。スピード競馬全盛の中で、ステイヤータイプの種牡馬が結果を残すのは難しいことではあるなりが、メジロマックイーンが存命のうちに、記憶に残るような名馬を輩出できなかったことは悔やまれるなりね。残されたデビュー前の産駒たちに、父を超えるような活躍を期待したいものなり。

メジロマックイーンのことは今までも、そしてこれからも絶対に忘れることはないなりよ。多くの感動をありがとう、と言いたいなり。

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