1990年のダービー馬、アイネスフウジンが死亡。

2004/04/23 06:25 Written by コ○助

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コ○助が競馬大好きだったピークの頃の1990年。恐らく世間的にも競馬ブームがノリノリだった頃だと思うなりが、圧倒的な強さを見せてくれた若駒がアイネスフウジンだったなり。アイネスフウジンは最後の直線が長く、逃げ馬には不利というのが定説の府中・東京競馬場の2,400メートルを華麗に走り抜け、見事にレコードタイムでダービーを逃げ切った名馬なりね。コ○助はあのレース、実はメジロライアンを必死に応援していたというのは内緒の話なりが。

アイネスフウジンはダービー後の菊花賞を前に屈腱炎を発症し、その後一度も走ることなく種牡馬に転身したなりが、種牡馬としてはなかなか活躍馬を生み出すことができなかったなりね。1997年にはシンジケートが解散し、1998年に種牡馬を引退。しばらくして産駒のファストフレンドが東京大賞典や帝王賞などを勝ち、「砂の女王」と呼ばれるようになったことから、再び種牡馬生活に戻って北海道の牧場に繋養されていたなりが、最近は宮城県の斉藤牧場で余生を過ごしていたようなり。ただ、今月5日に腸捻転のために死亡していたことが明らかになったのだとか。タマモクロス、サクラホクトオー、ナリタブライアン、エルコンドルパサーといった数々の名馬の命を奪っていった腸捻転。本当に憎い病気なり。

数々の話題を残した馬。アイネスフウジンには、そんなイメージがあるなり。初のG1制覇となった朝日杯3歳Sでは13年間も破られていなかったマルゼンスキーのタイムを塗り替えるレコード勝ち。驚異的な快足ぶりに誰もがびっくりしたものなり。その朝日杯3歳S直後に、アイネスフウジンを手塩にかけて育てた生産者の中村吉兵衛さんが他界。「愛馬が最後に夢を見せてくれた」と話題になったなりね。主戦騎手だった中野栄治騎手は決して一流の騎手とは呼べない成績だったなりが、アイネスフウジンに出会ったことでダービージョッキーに。苦労人が報われたと、これもまた話題になったなり。さらにアイネスフウジン引退から数年後、馬主だった小林正明さんが、経営する会社が倒産したのを苦に自殺したときにも、再び話題となっていたなりね。

良くも悪くも、多くの人の人生を左右したアイネスフウジン。きっとこうして語られることも少なくなっていくと思うなりが、コ○助は一生忘れないでいるなりよ。あの力強い走り、忘れるわけがないなり。死亡のニュース、本当に残念なり。

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