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> 今日のなりなり。 > 想ひ出編

昨日の夜は大きな公園に花見宴会をしている人たちを眺めに行ったなり。
最近あまり大きな公園に行っていなかったので、ちょっとビックリしたなりよ。
公園の入り口はヒッソリとしていて、「平日の夜だからまあそんなに人もいないかな」と思っていたなりが、公園の中心に向かって行くと何やら急にガヤガヤともの凄い音が。
午後9時頃だったなりが、コ○助が想像していた以上の盛り上がりで、グロッキーになった若い人たちがゴロゴロしていたなり。
まるでどこかの飲み屋でコンパやっている人たちのようだったなりね。
鍋やら七輪やらいろいろ持ち出していて、ちょっと楽しそうな雰囲気ではあったなりが、中にはマクドナルドのハンバーガーを片手に酒を飲んでいる強者も。
でも「花見弁当」を持って来ているような人は皆無だったなり。
そういうご時世ではもう無いなりかね。
いずれ「花見弁当」なんて言葉自体が「何それ?」という時代が来るのかもしれないなり。
ちょっとそれも寂しいような。
まあ「花見弁当」に限らず、「弁当」という文化がコンビニやファーストフードの普及で廃れてきているのは事実なので仕方ないなりか。
そういえば昔はよく弁当を喰ったなりねぇ。
小学校の頃は変な弁当を持ち合うのが流行った時期があったなりよ。
カレーライスを持ってくる人、ソーメンを弁当箱に詰めてくる人、ポットに味噌汁を入れて持ってくる人。
今から12,3年も前の話なので、結構麺や暖かいものを持ってくるというのは画期的だったような記憶があるなり。
でも今思えばカレーライスやソーメンを入れてくる人って親の怠慢だったような気もするなりが(笑)。
中学生の頃には、コ○助くらいの世代でもいわゆる「ドカベン」タイプの弁当を持ってきている人はいたなりね。
シルバーに輝く大きめな弁当箱に、白米をいっぱい詰め込んで、そこに塩っ辛い鮭と海苔とたくわんという、オーソドックスな鮭弁当スタイルなものの、あまり最近はお見かけしないタイプの弁当を好む人がいたなり。
そういう弁当を持ってくるのは、たくさん食べる人なのでやっぱり運動部系の人たちだったなりが、まるでマンガのように授業中に教科書を立ててこの弁当を食べている人たちが多かったなりよ。
あれって、3時間目とかが始まる10時半くらいにはもうお腹が空いているということなりかね。
朝ご飯も食べた上で10時半くらいに弁当を喰らい始め、さらに昼飯を購買かなにかで購入して喰らう。
よくよく考えるともの凄い食欲なり(笑)。
いなかったなりか?そういう授業中に弁当食べちゃう人たち。
「弁当」という単語を聞くと、そういった光景を想い出しちゃうなりよ。
他には想い出すのは弁当を忘れてしまったこと。
これもコ○助自身もよくやったし、他にもやっている人はたくさんいたなりね。
あのお昼の時間にお腹を空かせてワクワクしながらカバンを開ける気持ち。
そしていくら探しても弁当が入っていないという衝撃。
絶望感。
そんな経験は無いなりか?
なんか自分が昼ご飯にありつけない悲しさと、親がせっかく早起きして作ってくれたのにそれを持ってこなかったという申し訳なさが交錯して、何とも切ない気分になるものなり。
大人なら別に自分で昼食の調達に走れば良いのでそれほどのショックは無いなりが、子供の時分はお金も大して持っていないし、学校から抜け出してご飯を買いに行ったりもできなかったのでショックだったなりよ。
なんだかそんな気分をもう味わうこともないかと思うと、それはそれで寂しかったり。
しかし親ってのは大変なりね。
コ○助は料理自体は大好きで、和・洋・中なんでもだいたいのものは作れるなりが、弁当は何だか苦手なりよ。
だいたい朝早起きして作らなければならないというのが、苦痛で仕方ないなり。
だから、振り返って自分の子供時代の親の弁当を作る苦労を考えたら感謝しないわけにはいかないなりね。
コ○助もいずれ親になって子供ができたらお弁当作ってあげるなりかねぇ。
自分の子供だと思うと何でも頑張れてしまうものなりか?
って、すっかり自分で作る気でいるなりが、そういうことを一切してくれる嫁さんを見つければ良いだけの話なりか(笑)。
あ、あと早起きを抜きにしてもメニューを考えるのが大変そうなり。
あの小さな弁当箱に数種類のおかずを詰めなければならないと思うと、ちょっと大変なりよねぇ。
本当に弁当って手間がかかるなりね。
世の子供のために弁当を作っている親たちには感謝感謝なり。
弁当を作るのは面倒臭いなりが、弁当という文化自体は廃れて欲しくないなりね。
ここで言う弁当というのは、コンビニ弁当やホカホカ弁当は含まないなりよ。
いわゆる愛情弁当なり(笑)。
どうかいつまでも弁当という文化が残りますように。
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