日露戦争期に長崎で発売した「バンザイサイダー」、地元業者が復刻。

2006/11/29 01:23 Written by コジマ

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長崎における観光のメッカとして、出島や大浦天主堂、オランダ坂などと共に修学旅行生が殺到するグラバー園(グラバー邸)。ぼくも高校の修学旅行で訪れ、この異国情緒たっぷりの建物に魅了されたのは確かなのだ。

ここの元主である英国人トーマス・ブレーク・グラバーは、23歳の若さでここ長崎で「グラバー商会」(グラバーが入社した「ジェーディン・マセソン商会」の長崎代理店)を設立し、貿易商として成功しただけでなく、薩摩、長州、土佐の倒幕志士たちを支援し、明治維新に陰ながら貢献するほどの親日家だったのはご存じのとおり。奥さんもツルという日本人だったのだ。

グラバーは日本の政治的な変革を支えただけでなく、長崎港の海岸沿いに鉄道(わが国初の蒸気機関車)を敷いたり、横浜で米国人ウイリアム・コープランドが開設した日本初のビール醸造所を買い取り、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」を設立し、本格的なビールの販売を開始するなど、産業的にも日本の変革に貢献しているのだ。このビールは「ラガー・ビール」と名付けられ、ラベルには伝説の動物「麒麟」があしらわれていた。そう、この会社が現キリンビールの原型となっているのだ。

さてさて、このジャパン・ブルワリ・カンパニーをグラバーと共に設立したのが、グラバーと同郷のロバート・ウォーカー。兄のウィルソンと一緒に船乗りとして長崎に上陸したウォーカーは、「R・N・ウォーカー商会」を設立し、日本の海運業界に多大な功績を残したのだそう。グラバー園のなかには、ウォーカーの息子の邸宅跡が残っている。

そのウォーカーが、日露戦争が始まった1904年に発売したのが「バンザイサイダー」なのだ。外国人居留地に住む人々や外国船の船員向けに販売され、「バンザイ」の名称は長崎の大浦地区に集まった日本兵が、日露戦争の大勝利に歓喜し「バンザイ」を連呼していたことから付けたのだそう。

しかし、長崎の国際貿易港としての役割や外国人居住率が低下したため、1919年頃から姿を消してしまったようなのだ。今となっては資料はほとんど残っておらず、「幻のサイダー」となってしまっていた。

このサイダーを復活させようと取り組んだのが、地元の酒卸業者である長崎県酒販。創業57年という歴史を誇る同社だけど、相手は明治時代のものでレシピやラベルの資料は一切ない。そこで、現在グラバー園に勤務しているウォーカーの曾孫、ウォーカー・ジェームス・正良さんと議論を重ね、今はほとんど使われることのない「シャンパンサイダー香料」を使い、当時の一般的なサイダーを再現。炭酸は弱めに作った。ラベルも、長崎を象徴する海の色と夕陽の赤でカラーリングし、「BANZAI」のロゴと共にウォーカー商会の頭文字である「W」をマークを入れている。

正良さんの父がいつか復活させたいとして取得していたバンザイサイダーの商標権も、正良さんが喜んで提供したそうなのだ。

予定では今年7月に完成するはずだったのだけど、バンザイサイダーの歴史的背景の深さから、一過性のイベント商品として済ませられるものではないと判断した同社が入念な再調査を行ったため、今年11月にようやっと完成したのだ。今年度は5万本を製造し、ゆくゆくは12万本に増産していく予定だそう。福岡市や長崎市の百貨店、酒店で販売され、330ミリリットルで220円。バンザイサイダーとしては完全な復刻ではないけれど、明治時代の味を体感できるなら、それほど高くない値段なのだ。

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